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「創刊50周年記念 週刊少年ジャンプ展 VOL.3」と、アニメ・漫画の歴史

 日本のアニメ界・漫画(日本の文化)を変えた伝説的な人物といえば、手塚治虫であろう。手塚といえばいろいろな噂や伝説があるが、
 最も大きな功績は、漫画家を食える状態にした事である。1970年までの当時の漫画家は食べていけるのはせいぜい数人で、売れるのも一時期だった。ワンピースの尾田だって、ドラゴンボールの鳥山明だって、手塚治虫の基盤がなければ食べていく事すらできなかっただろう。人気職業の1位は小説家で、稼ぐ小説家は漫画家の何千倍で、名作を描いても会社員の給料にすら届かない貧乏職業だったのである。もちろんランキングには少年の夢の50位にすら入っていない。
手塚治虫 高橋よしひろ 手塚賞を受賞

まかりまちがって漫画でめしを食おうと思っている人へ
 1977年にカッパ・ホームズから出版された「漫画の描き方」で語っている。
現在では、こんな若者が多い。「プロになると、原稿料、一枚いくらですか?」のっけにこう聞いてくる。「ちばてつやさんは「あしたのジョー」でものすごくもうけたって本当ですか?」「先生のアシスタントになると月給いくら貰えますか?ボーナスは年何回?」(36ページより)
生活の確立とか、食うことの保証とか、ましてや、楽をしようとなんて欲からは、ほど遠いものなのだ。(回答)
漫画の描き方
「漫画家は食えない」のは覚悟した方がいい。 子供を対象にした職業なのだが、現実の厳しさをしっかり語っている。漫画は夢や希望、勇気を与える作品だけに、子供心に描いていた漫画業界と現実の世界とのギャップを感じるかもしれない。
「漫画界は、予想以上にきびしい世界である。」と。手塚プロダクションの出身で、夢を成し遂げた漫画家は多い。藤子不二雄(F&A)氏、石森章太郎氏、赤塚不二夫氏、つのだじろう氏など、そうそうたる人材である。名作をどんなに描いても、全国に広めるマンガ雑誌が売れていなければ、世間で盛り上げて人材を発掘し次世代につなげる祖がいなければ、ただの凡作だ。
売り上げ数だけで漫画家を評価するのは、とても失礼なことだ。
手塚治虫 先生ってすごく仕事に厳しい人だったみたいなんです。だから、アシスタントに求める質は高かったし、自身でも一切手を抜かずに仕事をしていたんです。

ホント、仕事の鬼ですよね。言ってしまえば、ハードワークを社員に強いるブラック企業ですよ。
でも、社員、つまり手塚先生のアシスタントは楽しそうに仕事をしているんです。

高橋よしひろも語っている。漫画家を完成させるには、アシスタントの存在は必要不可欠である、と。漫画が売れて事務所を作れるに至ったら、アシスタントをしっかり食える状態にして技術を丁寧に教えて育てるべきだ、と。80年代後半〜90年代前半に入ると、人気漫画家が多くなり、当時のアシスタントは学ばせてあげるから無給で働かせる漫画家が非常に多かった。世間でも有名だった。漫画界や手塚を見てきた高橋よしひろ先生は、その時代から先見の明で熱く語っていたのを斬新に思ったものだ。

1968年、少年ジャンプが創刊する。
 1970年までの当時の漫画雑誌は、「マガジン」が圧倒的に人気(「巨人の星」や「あしたのジョー」等の連載)で、それに次ぐのが「サンデー」でした。
全国に発売された少年ジャンプは前途多難なスタートを切り、全然売れなかったのですが、しばらくして連載された本宮ひろしの「男一匹ガキ大将」が大人気となります。数年で廃刊する可能性のあった危機を、救う事となりました。チャンピオンは1970年代後半に「ドカベン」、「ブラックジャック」など有名な漫画家で、日本初の200万部へ到達して1位を取ります。

 少年ジャンプも、「キン肉マン」、「こち亀」、「悪たれジャイアンツ(高橋よしひろ)」で追い上げます。「ドラゴンボール」のヒットと他作品(1983年の「流れ星銀」(高橋よしひろ)を含む)のヒットで、1980年代で黄金時代を築き上げます。1977年は150万部です。1990年の600万部まで図がウナギ登りです。
少年ジャンプの売り上げ
1980年代の漫画家の偉業の努力の積み重ねにより、1990年になると少年ジャンプで1度連載で評価されれば、億万長者になる漫画家が続出します。うすた京介先生が炎上(アシスタント残業代未払い)も昔の人なら理解できる考えだが、先人の努力なしに億万長者になれることはありえない。この程度のギャグ漫画で。漫画家の地位は貧乏職の評価の時代ではない。

新人を発掘してきた「少年ジャンプ」の工夫

漫画家が食えない職業で、凄まじく大変で人材も来ない。求人を出しても誰も来ない時代に、どのように発掘したのか。
自動車工場にいた高橋よしひろ先生をみれば理解できる。

「全国の子供たちに影響を与える職業につきたい」。この一言につきる。これを機会に、貧乏と東京で野垂れ死にを覚悟して、やけくそで上京してきたのだった。住む家もなかったんではなかろうか。

 そこで少年ジャンプは、少年に夢を与える職業になろう(例え稼げなくても・・・)と、テーマ(「努力」「友情」「勝利」)を掲げて、やりがいを感じさせる演出をするのである。そんな単純で純粋な動機が、心を動かしたのだ。

 げんこつボーイ(原作・牛次郎)、1974年から16ヵ月連載。
 悪たれ巨人(読み、悪たれジャイアンツ)1976年5/6号から1980年9号まで連載する。
 男の旅立ち、1980年19号から1981年18号まで掲載する。白い戦士ヤマトに続く傑作。
 青空フィッシング(原作・布勢博一)、1981年34号から1982年24号まで掲載する。
 翔と大地、全3巻、ボクシング。週刊少年ジャンプで1982年34号から1983年13号まで掲載する。

「銀牙-流れ星銀」を83年の掲載するまでつづっても、少年ジャンプ1部でも買ってもらおうと、休みなく途切れなく連載を続けている。
彼らの努力なしに少年ジャンプが成り立たなかったことを、今の経営陣は忘れてしまっているのでは?

高橋先生は道徳で、人の心を動かせる・感動を与える・衝撃を与える・こんな人間は許せないと思わせる・そんな漫画を描きたいと一心に思ったようだ。漫画賞の審査員でも、1作品で人の心を動かさない内容に対しての評価は、非常に厳しい。
1作品で読者の心をつかめるのか?この投稿で人生を預ける覚悟があるのか?自分に置き換えての激しいコメントに、熱意を感じる。ワンピースの尾田の担当などは長い目で続けてコツをつかんで売れていけばいい・漫画さえ上手ければいいのコメントにはギャップを感じる。そっちが成功してるのは、時代の違いを感じさせる。私は短期連載でも、魂を込めて完成させるマンガの方が大好きだ。

後藤さん(創刊時からの4代目編集長)は、当時の状況を語った。
「一番の難題は、創刊した時、描いてくれる漫画家さんがいなかった。大家と言われる漫画家さんや人気のある漫画家さんは、口説き落とせない。理由は、大手の出版社が、有名な漫画家さんを抱え込んで離さなかったから・・・・」

本宮ひろ志さんの『男一匹ガキ大将』!この漫画を掲載した途端、反響を呼び、見事、連載を勝ち取ることになった。他にも、同じ頃連載が始まったのが当時新人の永井豪さんの『ハレンチ学園』。この両作品が創刊時のジャンプを引っ張ったという。

650万部時代のジャンプ編集長が激白!!“黄金時代”の舞台裏とは?

 編集者のアイデアで漫画の内容が激変することも?「ドラゴンボール」や「スラムダンク」が人気を牽引! ジャンプの歴代最高発行部数「653万部」はギネスにも登録されている。いま、編集者と作家が相談して主人公キャラを変更したとのことですが、編集者の意向は漫画の内容に影響するのでしょうか。
堀江信彦「『北斗の拳』の2話目って、一度僕がボツにしました。最初の原稿だと、主人公のケンシロウが荒野を彷徨う行動理念が分かりづらくて、これだと連載が続かんぞと。それで、原稿をボツにして描き直してもらった。そしてできたのが『怒り天を衝く時!の巻』、いわゆる“種モミじいさん”の登場話。そこからケンシロウの行動理念が明確になりました。『魁!!男塾』(宮下あきら)なんかも、一回死んだキャラを生き返せたら人気出てきたり、そういうのは編集部の知恵ですね。「もう生き返らせちゃえ!」と(笑)。
少年ジャンプ展

『銀牙 -流れ星 銀-』(高橋よしひろ)も、最初、犬たちは喋らず周りの人間に喋らせました。で、こんな面倒くさいことをするんだったら、犬に喋らせちゃおうと。すると、犬が人間の言葉を喋りだしたら人気出てきたんです。作者と編集者が知恵を出しあって良い作品にする、そんなことはいっぱいあります。やっぱり、週刊連載というのは漫画家ひとりでは難しい。周りの協力、アイデアがあってこそ続けられます。
 漫画家と編集者は二人三脚で進むものなんですね。
堀江信彦「漫画編集者っていうと原稿取りくらいに思っている人もいますが、優秀な漫画編集者は、才能のある人を見つけたら「この人をどう食べさせようか?」って考える人のことです。でも、この業界を見渡せば、デビュー前の新人に手あたり次第「原稿が出来たら持ってきて」で済ませている編集者もたくさんいると思います。」

編集者も大変だなあ。

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